細川政権 (戦国時代) (Hosokawa's Government (Sengoku Period))

細川政権 (ほそかわせいけん)とは、明応2年(1493年)から天文 (元号)18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代 (日本)における武家政権である。

クーデターによる政権奪取

応仁の乱のなか、細川家当主・細川勝元は死去し、その後は嫡男の細川政元が継いだ。
政元は第9代将軍・足利義尚が陣没して将軍継嗣問題が起こると、第10代将軍に清晃(堀越公方足利政知の子で後の足利義澄)を推していた。
しかし、足利義視や畠山政長との政争に敗れて義視の子・足利義材(後の義稙)が第10代将軍に擁立された。

延徳3年(1491年)1月に義視が死去すると、幕政は畠山政長によって独占されることとなった。
明応2年(1493年)2月、畠山政長は河内国平定のため、足利義稙を擁した幕府軍を率いて畠山義豊(畠山義就の子)を攻めた。
そしてこの遠征中に京都の留守を任されていた政元は日野富子と結託してクーデターを決行する(明応の政変)。
4月に清晃を京都にある自邸に招き入れ、実質的に第11代将軍・足利義高として擁立したのである。

一方、河内にあった幕府軍は京都の政変を知ると動揺して離反が相次いだ。
さらに政元の討伐軍が送られて義材は捕縛されて京都竜安寺に幽閉され、政長は自害した。
こうして政元は将軍を傀儡として擁立することで、細川政権を成立させたのである。

政元政権

政元の誤算は義材に逃亡されたことにあった。
政元は将軍殺しの汚名を嫌い、義材を小豆島あたりに流罪にしようと考えていた。
しかし、畠山政長の配下だった越中国守護代の神保長誠による手引きで京都を脱出してしまったのである。
このため、明応8年(1499年)には義材に呼応した諸大名の攻撃を受ける。
政元はこれを破り、義材は周防国の大内義興のもとに逃亡した。

一方、将軍・足利義高(後に義澄と改名)を擁立して覇権を掌握した政元にも問題があった。
それは政元が政務を家臣任せにして修験道に溺れているということである(細川両家記より)。
幸いにして政元には安富元家や三好之長といった優秀な家臣団が存在していたため、特に政務が乱れることは無かった。
しかしこのような政元の奇行に家臣の一部が反発した。
永正元年(1504年)には摂津国守護代の薬師寺元一と赤沢朝経による反乱が起こるなどして、次第に細川氏内部に不穏な動きが起こり始める。

さらに政元は妻帯しなかったために実子が無かった。
このため、養子として関白・九条政基の末子である細川澄之を迎えた。
しかし、やがて細川氏の分家などが血のつながらない養子に家督を譲ることに反発したため、阿波国の細川分家である細川義春の子・細川澄元を養子に迎えた。
さらに後には同じく分家から細川高国も養子に迎えた。
3人も養子を迎えたことがかえって家督争いを引き起こす結果となった。

永正3年(1506年)、政元は自らの勢力拡大を目指して河内・大和国・丹後国など諸国に軍を派遣した。
この遠征は翌年になっても続いたため、政元の身辺には軍がいないという事態が続いた。
そして永正4年(1507年)6月23日、政元は澄之を推す薬師寺長忠・香西元長らによって暗殺されてしまった(永正の錯乱)のである。

澄之政権

政元暗殺後の6月24日、長忠と元長は細川澄元の暗殺も謀った。
しかし、澄元の家臣・三好之長の手引きによって近江国に脱出した。
こうして長忠と元長は澄之を擁立したのである。

しかし近江に逃れた澄元・之長らは近江の国人衆を味方につけ、8月1日には京都に侵攻する。
この戦いで澄之は敗れ、遊初軒(澄之の自邸)で自害した。
長忠・元長らも自害し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。

澄元と高国の争い

澄之を自害に追い込んだ澄元は、細川氏の家督を継いだ。
ところがこのような内紛が周防国に逃れていた足利義稙(義材)や大内義興のもとに知らされると、義興は九州・中国の諸大名を動員して上洛を開始したのである。
澄元は高国に命じて義興と和睦しようとした。
しかし、高国は意に反して義興と通じて寝返った。
このため、和睦交渉は決裂する。

永正5年(1508年)4月、西から義興が率いる軍、東から高国が率いる伊賀国などの軍勢に攻められた澄元は京都を放棄して近江に逃亡した。
このとき、澄元に擁立されていた足利義澄も近江に逃亡した。
このため、再び義尹が将軍に復帰し(後に義稙と改名)、今度は高国・義興の連立による傀儡政権が成立したのである。

永正6年(1509年)、京都奪還を目指す澄元・之長らは京都に侵攻するが敗退(如意ケ嶽の戦い)する。
このため、永正7年(1510年)には逆に高国・義興による近江侵攻が行なわれたが、澄元は近江国人衆の支持を得てこれを破るなどした。
一進一退の攻防が続けられた。

永正8年(1511年)、澄元は細川政賢・赤松義村らを味方につけた大軍を率いて京都に侵攻し、各地で高国・義興連合軍を破った。
ところが後ろ盾であった近江守護の六角高頼が高国方に寝返った。
さらに8月14日に澄元が擁していた足利義澄が病死してしまう。
このためもあって、8月24日に行なわれた決戦である船岡山の戦いで澄元は大敗を喫して細川政賢は戦死し、澄元は摂津に敗走した。

将軍足利義稙を擁する高国と義興の連立政権はしばらく続いた。
しかし、永正15年(1518年)8月2日、大内義興は周防に帰国したため、細川高国による単独政権となる。
ところが反攻の機会をうかがっていた澄元らは、永正16年(1519年)10月に摂津に侵攻した。
この侵攻を高国は防ぎきれなかった。
永正17年(1520年)1月になると山城国で土一揆が起こるなどして遂に近江に逃亡する。
このとき、高国と不仲だった義稙は高国と行動を共にせず、澄元の庇護を受けた。
しかし5月になると近江に逃れた高国は大軍を率いて京都に侵攻した。
澄元は摂津に敗走し、三好之長は捕らえられて処刑された。
そして6月10日、澄元も最終的に逃亡した阿波勝瑞城で病死した。

高国政権

澄元の死で敵対者がいなくなった高国であるが、元々実力者である大内義興の力を背景にした政権であったことからその政権基盤は脆弱なものであった。
義興が帰国した後の高国は強権政治を敷きこれを維持せざるを得なかった。
功臣の瓦林政頼や利倉民部丞らを粛清したのをはじめとして、大永元年(1521年)には将軍・足利義稙を追放して義澄の子・足利義晴を新たに擁立した。
まさに「今は心に懸る事もなく、威稜日月に増長」であった。

大永5年(1525年)4月、高国は子の細川稙国に家督を譲って隠居する。
しかし、稙国は12月に早世してしまい、やむなく高国は家督を再相続した。

大永6年(1526年)、丹波国の守護・細川尹賢の讒言を信じた高国は、重臣の香西元盛を誅殺してしまった。
これにより、元盛の兄である波多野稙通や柳本賢治らは細川六郎(澄元の嫡男、後の晴元)や三好元長(之長の孫)と通じて高国に反乱を起こした(堺公方)。
これに対して高国は波多野討伐を実行したが、内藤国貞らの反抗もあって失敗する。
大永7年(1527年)2月には桂川の戦いで波多野・三好軍らに高国は敗れて将軍・足利義晴を擁して近江に逃亡した。

享禄3年(1530年)5月、高国に代わって京都で権勢を振るっていた柳本賢治が家臣の中村助三郎によって暗殺された。
これを機に高国は再び京都復帰を果たした。
しかし、享禄4年(1531年)3月には摂津中嶋の戦いにおいて三好元長に敗れ、6月4日の天王寺の戦い(大物崩れ)でも元長に敗れて捕らえられ、6月8日に自刃に追い込まれた。
こうして高国政権は崩壊したのである。

政権崩壊へ

高国の死後、三好元長に擁されて細川家の家督を継いだのは澄元の子の細川六郎(細川晴元)である。
しかし天文元年(1532年)に三好政長の讒言を受けて元長を誅殺し、堺幕府と決別し将軍・足利義晴と和睦、義晴を傀儡とした管領・細川晴元による幕政が行なわれた。

天文11年(1543年)に高国の養子・細川氏綱が挙兵したことにより、再び細川家の内紛が再燃した。
このとき、元長の子・三好長慶が晴元の家臣として頭角を現し、晴元は氏綱を圧倒する。
しかし天文17年(1548年)、長慶が氏綱側に寝返ったため、一転して晴元側が不利となり、天文18年(1549年)には江口の戦いで長慶に敗れて晴元は足利義晴・足利義輝と共に近江に逃亡した。
氏綱は管領となるも長慶の傀儡にすぎなかった。
晴元の敗北により、細川政権は終焉し、新たに三好政権が成立したのである。

その後も、晴元は政権奪回を目指して再挙を図る。
しかし、三好長慶に敗れて永禄4年(1561年)に和睦せざるを得なくなった。
晴元はその2年後に死去し、晴元の嫡男・細川昭元は氏綱と共に三好氏の傀儡となる。
織田政権下で織田信長の妹婿に迎えられて細々と命脈を保った。
なお、分家の和泉国守護・細川頼長から始まる系統を継いでいた細川幽斎・細川忠興らは織田政権下を大名として生き延び、江戸時代には熊本藩として存続した。

[English Translation]